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アザアンドトシ

「世界の90%はあざとさで出来ています」ということにさっきトイレの中で気付いた。

いやね、「世界を割合で表すなら水が70%じゃないか!」とか、そういうあれではないですよ。こう、もののたとえとしてね。もっとこう、なんといいますか、見えざる力というか人間の思惑というか、そういう視点での話ですよ。ついでに言うとこの90%っていう数字も割と適当に考えたものなんでね。99%というほど大きくもないし89%以下というほど小さくもないっていう、そういう実感から出した数字なんですけども。で、残りの10%についてはそれがポジティブなものか、はたまたネガティブなものか、そこら辺は各自考えていただきたいんですけども。

で、まぁ、この考えがどういうことを言いたいのかというとですね、その、ある目指すべき目的Aが存在するとしてですね、そのAというのはまだ誰の頭の中にも存在してないわけです。まだ誰も「Aを目指そう!」とは考えていないわけですよね。

この目的Aというものが誰かの頭の中に発生するか、はたまたしないか、そこら辺も考慮しなきゃいけない部分があって、まぁ、要するに「特に意識して目指していたわけではないけど気がついたらその目的に向かっていた」っていうことも起こりうるわけで、え〜、目的を自覚してるパターンをX、自覚していないパターンをYとしましょうか。

このXとYをわかりやすくたとえると、Xのほうは「怪我人を助けたいという考えで医者になった」のに対し、Yのほうは「怪我人を助けてたらいつの間にか医者になってた」ということなんです。まぁ、医者のたとえは医師免許とか技術とかそういう難しい要素があるんでたとえには向いてなかったかもしれないですが、そういう要素を一切省いて考えていただきたい。

こうやってみればYのほうが自然な流れという点で見れば理想的なわけです。いや、もちろん現実的に考えれば技術やら知識やらを一切学んでいない人間に手術とかさせたら大惨事ですよ、でも、物事の流れに自然さを求めたときにはYのほうが理想的なわけですよ。しかし、そんなことは滅多にありません。大抵はXのパターンで物事は進むはずです。

さっきXのほうは「怪我人を助けたいという考えで医者になった」と書きましたが、これは正確ではないのです、あくまでも「気がついたら医者」というYに対比させる目的でこう書いたのであり、正確に書くのであればXは「医者になろうとして医者になった」というパターンなのです。先に書いたのはそのパターンの中のさらに一パターンでしかありません。

ちょっと前の話題に戻ってある目的Aがあります。その目的Aを達成すべく経る過程をBとして、その結果をCとしましょう。ABCパターンとXYパターンをつなげようと思うのですが、それにはABCにXYを埋め込む方法とXYにABCを適応させる方法があります。後者は目的が同一のものとなるのですが、それだとめんどくさくなるので今回は前者の方法でいきましょう。

YのパターンにおけるAは「怪我人を救うこと」であります、そしてBも同じく「怪我人を救うこと」なのですが、ここで大事なのはAは概念であり、Bは行為であるという点において別物であるということです。『水を飲むために行う一連の行動の中の「水を飲む」という行為』という文章の中の二つの「水を飲む」は別物であるのと同じことです。そしてCは「医者になる」ということと「怪我人を救う」ということですね。

XのパターンにおけるAはYと同じく「怪我人を救うこと」なのですが、BがYのパターンと違い「医者になること」なのです。ここにXとYの決定的な差があります。すなわち行為における自覚です。そして、XにおけるCは「怪我人を救う」となるわけです。このXは後に分解して新たにパターン化するので、ここでのパターンはX−1としておきます。

このパターンX−1とYは間に「自覚しているか否か」という差はあるものの目指すところは同じであり、またYが周囲からの需要を認知してその行為を行っている場合は総じて善のものであり(独善性に基づいたものである場合は別)、なんらとがめられるものではありません。

さて、X−1というパターンがある以上、X−2もあるわけですが、先に新たな前提を作っておきたいと思います。すなわち僕みたいな一般ピロピロピーポーが浮かべるであろう、「医者って金持ちなんだろうな」という思考に基づいた前提です、実際のところは知りませんが、一つのたとえなので気にしてはいけません。先のABCパターンの中に出てきた「怪我人を救う1」「怪我人を救う2」「医者になる」にもう一つ、「お金ガッポリ」を付け加えましょう。この「お金ガッポリ」、X−1とYではもちろんCに該当します。

X−2における「お金ガッポリ」はAなのです。この場合、Bは「医者になる」であり、Cに「怪我人を救う」が入ります。

このX−2と先に出た二つを比べたとき、どちらが順序として正しいというか理想的かは明らかだと思います。っていうか、あれ、なんか、わかんなくなってきました。こんがらがってきた。医者のたとえは間違いだったのか。

これってすごく傲慢な考え方かもしれませんが、「あるべきパターン」っていうのがあると思うんです。少なくとも医者のたとえだったら目的は「怪我人を救う」であるべきだと思うんです。「お金ガッポリ」は付帯的なものあるいは副次的なものでなければいけないと思うんです。

別に僕は「現代の医療界は金にまみれたナントカだ!」みたいなことを言いたいわけではないのです、言うほど医療界の事を知らないし別に金にまみれてるとも思ってないからね。あくまでも一つのたとえであることをご了承いただきたい。で、やっぱりあってほしい流れがあって、「怪我人を救う」→「医者になる」→「お金ガッポリ」っていう順序で進んでほしいわけです。これは医者に限らずすべての行為においてね。

ところがそうそううまくはいかないといいますか、本来であればA→B→Cと行ってほしいところがC→B→Aとなってしまうことが少なからずというか、割と大半を占めてるんじゃないかと思うんです。そこからあざとさが生まれているんじゃないかと、そう思うわけです。

そのね、名言みたいなのがあるじゃないですか。その、ね、まったくいい名言が思いつかないんですけど、僕の中の名言貯金はスッカラカンなんですけど、まぁ、貯金した覚えがないから当然ですよね。

多くの名言っていうのは「名言として後世に残そう」と思って発せられた言葉ではないと思うんです。文章の中の一文だったりとか、会話の中の一言だったりとか、その中から「あんた今ちょっといいこと言いましたね」「え、そうかなぁ?」程度のものだと思うんです。これが名言を言おうとする即興コントの中の一幕だったら別ですよ。

これってABCパターンに当てはまってて「何かを相手に伝えようとする→発言→名言として後世に残る」っていうものだと思うんです。このCがあくまで付帯的なものであるからこそ名言として後世に残るんだと思うんです。

ところがですね、このC、つまり結果を先に求めてしまって「名言を言おう!」という魂胆の下に発せられる言葉のなんと薄ら寒いことか。そしてそういう言葉がなんと溢れていることか!

やっぱりこの薄ら寒さっていうのは言葉の後ろに見え隠れするあざとさが醸し出しているものだと思うんです。「目的があって、過程を経たうえでの結果」という公式が必要なのに「結果を追求して目的を設定し、そこに向かって全力で過程をこなしていく」という流れになってしまっているが故にあざとさが見えてしまい、あるいは目的が不安定になってしまい、薄ら寒さが漂う、そういう状態が蔓延しているように思います。

「ap bank fes」が台風で中止になりましたが、正直なところこっちとしては喜ばしく感じたりもしているのです。前回の記事でも書きましたが、僕はああいった良心のもとに行われる行為が基本的に好きではありません。それが問題の解決につながらず、ただのクソ連帯感の確認と自己満足にしかなっていないように感じるからです。

まぁ、このap bankに関してはある程度目的、資金を集めて環境保全のためのプロジェクトを推進する団体に低金利で融資するっていう、まぁ、こうやって書いたら言うほど明白でないようにも感じますが、目的が明白になっているので嫌いではないのです。ただ、やっぱりこのフェスに関しては一切納得できません。というよりも音楽を環境保全活動の宣伝のために使っているという姿勢が気に入りません。

いや、別に音楽を宣伝のために使うのは一向に構いません。しかし、音楽をやる目的が宣伝活動を行うためになっているような空気には断固として反対します!うん、なんだ、具体的に言うと小林武史の最近の動きがおおいに危険に思えます。

確かに彼は天才ですばらしい音楽を作り出すことが出来る、あるいは出来たかもしれませんが、最近の彼の仕事はなんて言うか、音楽とは向き合っていないように思えます。なんていうか、音楽をただの媒介にしているというか、要するに先のABCパターンにおいて本来Aであるはずの音楽がBになってしまっているというか、あるいは「どうせCは音楽になるさ」というおごりが見えているというか、少なくともこのABCパターンに何かしらのねじれが発生してしまっていることは確かです。

本当に心を揺さぶる音楽っていうのはAに音楽、Bに音楽、Cに音楽っていうもので、それが本当にいい音楽として認められるかはその次の次元の問題だと思うんです。しかし、最近の小林武史関連の音楽はここに何かのねじれが起こってて、それが違和感を感じさせている、そんな気がします。そこからあざとさが生まれているのではないでしょうか。

本当に音楽のことだけを考えた音楽と環境のことを考えながらやる音楽、どちらの音楽が必要とされているのか、それは微妙なところではありますが、一音楽ファンとしては前者の方を欲しているのです。やはり音楽を目的としない音楽を聴いてもあまりいいとは思わないですし、そもそも音楽をやる時ってそういう目的だけがあって結果とかって考えないもんじゃないでしょうか。

果たすべき目的ではなくその目的を果たした末の結果、それだけを追求してしまっているからこそ、どことなく薄ら寒さを感じてしまう、そんな現状があるのではないでしょうか?っていうか1時過ぎてこんな文章を書き続けるのなんかマジ勘弁だね!

テーマ:Mr.Children - ジャンル:音楽

  1. 2007/07/23(月) 01:04:36|
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